【老人介護】90歳の母が喜んだフォトブック

世の中がコロナ禍で止まっていた2年前に「家族の写真」で母用フォトブックを作ったことがありました。母と孫、母と曾孫、の写真を多めに入れたフォトブックです。息子たちと母とみんなで行った台湾旅行、息子の結婚式やお正月の様子、曾孫のお宮参り、息子のお店など何冊か作ったのですが、大きくなく手頃な大きさなので重いアルバムと違い手に取りやすいのだと思います。その中でも台湾旅行のフォトブックは大のお気に入り(笑)。今でもとても良く見ています。写真もデジタルに移行してから、写真を紙焼きにすることが少なくなり、アルバムに写真を貼る事がだんだんなくなり、PCには山程画像があるのに母はなかなか見ることができない。今はいいサービスが色々あって簡単にWebから入稿できるから本当に助かります。

母の両親は福島県出身。母の父(私から見たら祖父)は大百姓の息子、祖母は造り酒屋の娘で日本で結婚し、明治生まれの祖父は勤勉だったらしく、語学に堪能で英語をはじめ色々な国の言葉を話す人で、初孫だった私はとても可愛がってもらった記憶があります。なぜ台湾で仕事をしようと祖父が思ったのかは解りませんが、日本統治時代、大正13年から終戦の昭和24年までの27年間、祖父は台湾総督府の交通課鉄道運輸局に勤めて鉄道経営をし、台湾で暮らしていました。

母は昭和7年に台湾で生まれました。13歳で台湾で母(私から見たら祖母)を亡くし、17歳の時最終の引揚船で日本に初めて来たわけです。福島で土地は祖父方、家は祖母方が建てて迎えてくれ、福島で日本の生活が始まりました。

祖父も台湾にもう一度行きたいなと言って亡くなった事もあったし、お母さんの供養にも行きたいというので、2人で2013年に台湾に行き。泊まっていたホテルでハイヤーを手配してもらい、母の住んでいた基隆に行ってきました。住んでいた場所や学校など母の記憶でたどってもらったのですが残念ながら見つけることができませんでした。それから2年後、母が今度は孫たちに自分が育った場所を見せたいと言うので、息子たちと相談した所、それなら今度は詳しいガイドさんを雇って元気なうちにおばあちゃんのルーツの旅にみんなで行こうか!ということになり、2015年に再び家族で台湾に行きました。まだその時は母も84歳で多少の距離なら杖をついて歩くことができました。この写真は母が通っていた小学校にいった時の写真です。

基隆に詳しいガイドさんを雇ったかいがあり、住んでいた官舎があった場所にも行くことができて(母の母が無くなった所で遺骨は爆撃で無くなってしまい引き上げの時、着物を持って日本に帰ってきたそうです。)お寺で祖母の供養もしてくることができ、祖父の勤めていた総督府にも行って、母は気がかりが1つ無くなったと大変喜んでくれました。

日々、ぽろっぽろっとでてくる昔の話を聞くと、昭和、平成、令和と目まぐるしい世の中の移り変わりの中で生きてきて来たんだなとつくづく思います。日本人ですが母の故郷は17歳までいた生まれ育った台湾なんですね。中央研究院台湾歴史研究所のHPの台湾総督府の職員名簿に祖父の名前が載っていて、いつからいつまで働いていたのか、当時お給料をいくらもらっていたのか等がわかり、みじみ大正13年にまだ飛行機もないのに家族で日本を出て台湾に行くって凄いなと思います。

昨日も母が祖母といった台北の菊元デパートの話や小さい時食べたお菓子の事などを話しはじめて、「台湾にまた行きたいけどもう行けないわね」とぽつんと言っていました。いやいや、飛行機は年齢制限ないから、リハビリ頑張っていいけるかも知れないよと言ったら「もう一度だけ台湾行きたいわ」って言っていました。

ぼんやりがもっとひどくならないうちに計画してみてもいいかも知れないなと思いましたが、問題は車椅子を押すのが私一人では無理があるのではないか? と不安です。2-3日ならどうにかなるかな? 筋トレしないと厳しそうです。もう一度台湾旅行連れて行ってあげたいけれど……。

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